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稲荷屋 縁起

稲荷屋について(どーでもいい事ですけど)


「稲荷屋」は、の家の昔の屋号です。

由来は以下のとおりですが、どうも昔は大工さんだった様子。


広島市稲荷町と縁があるようで、我が家の歴史(昭和12年 佐々木佐市)に以下の記述がある。


佐々木忠四郎(享和3年5月24日没)
忠四郎時代ハ家盛ニシテ稲荷大明神を尊崇シ 今ノ稲荷町稲荷神社ハ忠四郎ノ庭内ニアリテ個人ノ祈願スルト所ナリシガ 後ニ公ノモノトナリ佐々木ノ屋号ヲいなりやト称スル所以ナリ 職業ハ不明 祭日ニハ炊出シヲナシテ近所ニ振舞ヒテ仁徳ヲ施シタル由ナリ

佐々木忠七(天保15年没)
此人モ稲荷ノ尊崇家○時代○付近ニ大火アリシガ 稲荷大神社及佐々木家ハ其災ヲ免カル之ヨリ稲荷神社ノ神威普クナレリト
(○は判読できず)


広島の歴史書のひとつである「知新集」3には以下の記述がある。

稲荷町東組
承應の絵図に比治山町とあり、
 四町鎮守稲荷祠 一宇 鳥井
この稲荷祠の由来を尋るに、元禄七年此ところの家主天野宇右衛門か父如邊といへるものへ夢中に白狐来りて、我住所(スミカ)なきを くるしむねかハくは住所をつくり賜へかしといふ、如邊はしめハ誠ともせさりしか夢想数度に及ひて其のこと實なるを知り、遂に尾長天神社 の神主圖書にはかりて居宅のうらへ小祠を建、毎年正五九月祭を執行ひしに、宇右衛門か代段原村へ替地を賜ハるの時(享保一四年)此小祠をも かの地へうつさんとしけるか、神主筑後(尾長天神社)をして鬮もて窺ハしむるに窺下らさるにより其まま此ところに安置せり、よって後の家主 大工忠七なるもの修理をくハへ信仰せしかは、近隣の里人も造酒なと供へ祭りけるか、享保一八年松川町より出火して此あたりの町残らず 類焼せしに、まへかた霊告ありて忠七か宅の側の家のミ火難を免れしより里人の信仰いよいよ厚く、かの稲荷祠をもて火災の守護神と崇め、 四町(土手町、松川町、大工町、比治山町)なから稲荷町と改めたきよし同じ年の夏水無月官廳へ願ひ奉りてゆるさる、 また同一九年春二月初午の日より例年の祭行ひたきよしも願奉りてゆるされ今に退轉なく執行ひける、


こちらにも天野さんと稲荷町の関係が記載されています。
広島市町名辞典 南区


広島の歴史書のひとつである「知新集」24には以下の記述がある。これは違うか?

一稲荷大明神
(中略)
一社 佐々木稲荷大明神と称す、願主佐々木氏勧請なるか故也、

また、稲荷屋の家には「稲荷記」(寛政七年乙卯如月初午 佐々木忠四郎) と呼んでいる巻物がある。 広島で有名なお祭り「とうかさん(稲荷さん)」にはこの巻物を持って行っていたらしい。
これを読めば、何かわかるかと期待したのだが、京都の伏見稲荷さんで教えていただいたところ 内容は伏見稲荷の神話とのこと。

ちなみに、お宝的価値はないそうです:笑)

「稲荷記」(最初の部分は虫損が・・・)